美的判断ー恋愛

美的判断について。


例えば恋愛。ある人(A)が誰か(B)に恋をした、とする。その時、AがBを選ぶという事に関してどのような、あるいは、どのように理由を考える事ができるのだろうか。Aは、過去に付き合ってきた(好きになってきた)人たちの事を思い出し、かつて誰かに恋に落ちた感覚を呼び起こす。そのような複数の感覚の中から一つの共通性を見いだし、それを根拠として「私が誰かを好きになる理由」を定位させるかもしれない(私、手が白くて、しゃがれた声の人が好きなの)。


しかし、ここには大きな問題がある。Aをかつて捉えた、他の誰か(C)を好きだったという感覚は、Bとの出会いを経た後にも、正確に呼び返される事が可能なのだろうか。感覚を記憶するという事は知識の記憶とは異なり、そもそも時間的な変化を被るし、上の場合さらに決定的なのは、AはBを好きになっているという、その事実だろう。これまで他の誰か(C/D/E)と恋に落ちてきた、その個別の経験(A-C)(A-D)(A-E)を今、ここの時点から測定することは不可能であるし、さらにいえば(A-B)という関係性を見いだしてしまったAにとって、今の私と、かつてCを好きになった私が同一かどうかすら確定し得なくなってしまう。


これは、しかし、美的判断の話でもある。僕らがある作品を「これは芸術だ」と判断する時、その感覚の根拠をどこに求める事ができるのか。一つの大きな拠り所として、私が私として積み重ねてきた経験から析出された基準というものが想定できる。それまで私が芸術を巡る膨大な判断の集積によって築き上げてきた判例を基に、ある価値基準を抽出し、その基準にてらして、それが芸術か否かを判断する(規定的判断)。芸術を経験するという事は、しかし、そのような形であり得るのだろうか。恋愛において、Bとの出会いがAにとって、それまでの(A-C)という関係性を決定的に変化させるのと同様に、芸術との出会いは、これまで私が為してきた判断の束すべての布置を揺るがし、それとともに、私にとっての芸術という概念規定そのものを変化させるものであるはずだ(反省的判断)。


規定的条件を設定する(ことができると考える)事とは、そもそも今この時点から(A-C)(A-D)(A-E)といった関係性を客観的に測定できると考える錯覚に他ならない。このような関係性を捉える事がそもそもできないどころか、そこでのAが、今と同じAかどうかすら保証するものなど何もない。そのような場において、私が下してきた、いかなる判例も決定的な基準とはなり得ない。


あるいは、ある人はここで、歴史主義者になるかもしれない。美術史のプロセスにおいて評価されてきた作品群と、今、私が出会った作品とを照合し、その価値を考えよう、と。私が下してきた判断に対して、今の私自身が厳密な距離を取り得ないのであれば、少なくとも「客観的事実」として成立してきたはずの美術史上の評価をもとに、この作品の価値判断は可能だろう、と。これはいわば、恋愛において「世間ではこういう人が理想の男性/女性として考えられてきました」という資料を引っ張りだしてきて、そこに現代的な解釈を加味して、今ここにいる相手と向き合うような態度だろうか。しかし、ここで相対主義者の立場を取れば、あらゆる歴史は個別の文化やその時の知の体系と結びついたイデオロギーに過ぎない、と。客観的事実としての美術史と言っても、「何々が評価されてきた(誰々が理想とされてきた)」という事自体が現実的事実だったとしても、そこで一群の作品が芸術であるとされてきたその根拠自体は、普遍性を持たないし、まず、それに共感するかどうかも分からない(いつもそれは裏切られる)。


やはり重要なのは、その都度、その都度の、個人的で一回的な経験であるべきなのだろうか。どんな規定的条件や美術史の体系をも、わたしに立ち現れた「これが芸術だ」(「私はあなたが好きだ」)という感覚を、根拠づける事はできない。であるならば、このような作品(相手)との出会いは、経験の強度としてのみ記述されうるのだろうか。いくらかの判例を抱え、そこからささやかな共通性を見いだし、規範となる条件を導きだした私の価値判断基準を決定的に裏切り、その基準を再編させすことによって芸術という概念を拡張させるような、経験の一回的な出来事として、それは捉えられるべきだろうか。そして、そこで確かに、ある強度として立ち現れた「これは芸術である」という感覚すら、次の作品を見る際のいかなる判断基準足り得ない。


しかし、このような言い方にもひとつのジレンマが付きまとう事となる、それが近代が抱えた「芸術」における逆説なのだろう。いかなる規定的条件にも基づかない一回的な経験、その「出来事性」があまりにも強調されると、今度はその「出来事性」なるものが、いわば新たな規定的条件であるかのように機能しだしてしまう、というジレンマ。こうなるともう恋愛もクソもなくて、とにかく新しいものに飛びつくチャラ男みたいなもので、今日はコギャル系、明日はセレブ系(今日はフォーヴ、明日はキュビズム)というようにマイナーチェンジを繰りかえすだけになってしまう。