ストローブ=ユイレ 物体としての顔

kosuke_ikeda2006-12-16

ちょっと前だけどアテネ・フランセストローブ=ユイレ特集をやってて、「ルーブル美術館訪問」(2004)と「あの彼らの出会い」(2006)を見てきた。「ルーブル」ではアングルやヴェロネーゼ、ティントレットなどの作品をスクリーン全体に固定カメラで捉えつつ、それらの作家に関するジョアシャン・ガスケのテクストが朗読される訳だけれど、僕には、というかすこし美術をかじってる人なら誰でもそうだろう、語られる内容が教科書すぎてやや退屈。「あの彼らの出会い」は5つのパートに分かれていて、それぞれの場面で二人の俳優が登場しチェーザレパヴェーゼという人のテクストに基づいた対話、あるいは台詞の受け渡しめいたことを行う。対話が対話らしく「自然に」行われることが目指されるのではなく、かといってパロディーめかした人工性を押し出すのでもない、言葉を唯物的に発する、という感じ。まあ、これも退屈といえば退屈で、しかしすごいのは、二人の台詞が尽きた後に沈黙状態の俳優が映し出される、そここそが見せ場なんじゃないかというくらい美しい。特に強烈な光のもと岩場でやり取りをする五組目の最後、白い岩を背景に動かない役者が正面から捉えられる、ほとんど人物は石化状態で、その硬化した顔のがっちりとした物体性!


そういえば、10日の日記http://d.hatena.ne.jp/kosuke_ikeda/20061210にてビル・ヴィオラ展では"サレンダー/沈潜"(2001)、"驚く者の五重奏"(2000)が面白いと書いたけど、これは二つとも「顔」がよく撮れていると思う。ヒロエニムス・ボスの絵画をモチーフにした"驚く者の五重奏"、五人の男女の正面向きのバストショットがプロジェクションされる。彼らの感情の高まりが、悲しみの表情が徐々に極まってゆき、やがて疲れきったように肩を落としてゆく、その様がスローモーション化されている。前半から中盤にかけてグワッと悲しみの表情が盛り上がっていくところで退屈な遅延状態を持続させて、それがある瞬間で蕩尽したように消え去り、恍惚とも疲労ともつかない表情を浮かべながら肩を落としていく。この瞬間に表情はあるコード(「悲しみ」とか「怒り」といった)を失い、単なる「顔でしかないもの」になり、いわば遅延の中から物体性が絞り出されてくるかのようなのだ。"サレンダー/沈潜"に関しては、ちょっと作品のディスクリプションが面倒すぎるので省略するけれど(でも、こういう作品が一番面白いんだな)、二人が水面から顔を上げた後、その振動で水面が揺れて、顔が歪んでゆく、その時にそれまで浮かんでいたいわゆる苦悶の表情のようなものが完全に無効化され、ドゥルーズがベーコンを通じていうような「頭部」、表象の中心物としての「顔」を失った後の頭部のしての物体が、えぐり出される。