デジャヴュとしての絵画

kosuke_ikeda2006-09-10

健やかに育ったあなたの真っ白なうなじに
"いつぞや"誰かがキスをする(強調は引用者による)
aiko 「瞳」


「いつぞや」というのは「いつぞやはお世話になりました」というように、過去の不確定な一地点を指し示す言葉だ。ここでは「健やかに育ったあなたの真っ白なうなじに」「キスをする」、その現在時制において起こる事象が、同時に過去完了(いつぞや)としても現れている。交錯する現在と過去、それはここで書いた「蝶々結び」の問題とも重なる。


いま、手元にないので正確な引用が出来ないのだが(ウェブで公開してほしい!)、artictoc vol1での岡崎乾二郎氏との対談にて郡司ペギオ幸夫氏は、デジャヴュという経験を、現在ここで起こった事が、違和感と共に、過去に起こった事としても感知されるものだとしていたと思う。


話は飛ぶが、例えば岸田劉生における写実、特にフューザン会解散後、草土社を率いたあたりでの劉生は、今この画家の前にいる人物の物体的存在をそのまま描き出そうとする写生を目指した、というのが一般的な解釈だと思う。でも、僕がそれでは納得しきれなかったのは、にもかかわらず、なぜそのような実在を目指すリアリズムが、あからさまにデューラー風、あるいはホルバイン風のスタイルをもって示されなくてはいけないのか、ということ。これまでの劉生研究は、誰もこの理由、そして、それによって引き起こされる謎を指摘していないと思う。端的に言えば、上のような乖離をもった劉生の写生は、今、確かにここにある存在を描き出したものとしての現在完了と、すでに存在していたスタイルとしての過去完了との二つの時制が交錯する、いわばデジャヴュ的性質をある時点で獲得した、と言えるのではないか。


このようなデジャヴュ的なものへの関心は、劉生よりも少し下の世代にあたる村山知義の仕事にもーーより分裂した形で、であるがーー見受けられる。村山は1922年デュッセルドルフ国際美術展における未来派の作家として出品した後、デューラーなどに感化され、自身も古典技法による写実的絵画『ヘルタ・ハインツェ像』を制作する。そしてそれは、物体的要素を張り合わせた『コンストルクチオン』のような作品群と共にマヴォ展にて展示されるだろう。「ダダと構成派に時間的にも理論的にも次ぐもの」として現在性を獲得する「意識的構成主義」的な作品群の中に現れる実在。ここにおいて『ヘルタ・ハインツェ像』は、「意識的構成主義」的な「現在」の条件を逆照射すると共に、今ここにある現実の写実としての「現在」を示す、と同時に、それがデューラー的スタイルの「過去完了」としても現れる、というような複雑な状況、つまり二つの異なった「現在」と一つの「過去完了」とを一挙に示す事となる。


セザンヌの、印象派を美術館の絵画のようにしたい、という意志も、このようなパースペクティブの中で捉える事が出来るし、それは制作面でも、サント=ヴィクトワール山やその梺の水道橋をプッサンのクラシックな風景と重ねてみせるような姿勢に端的に現れている。


これ、もうすこし真面目に書きたいなあ。