絵画、理想としての

超越的(transcend)な態度と超越論的(transcendent)なそれとの差異、それは物自体をどのように捉えるかの差異と完全に一致するだろう。柄谷氏によれば、カントは物自体の存在を認めない、しかしながら統制的に働く「効果」として、あり得るのだ、と。例えばそれは憲法九条を考える際に、それが現実と合致していない、理想であるが故に、現実に対して、それこそ「現実的」な効果を発揮しうるのだ、という議論とも重なる。それを現実の中に実体的に定位しようとした途端に、現実に対する外部性が失われ、「現実的」な効果が失われてしまう。超越論的とは、常にこのような外部に立ち続ける事、それは短絡的にメタレヴェルに立って物事を思考するという事ではない、超越的な立場などあり得ない事を知りつつ、定位しえないズレとしての認識の場所へと動き続け、その不可能性を露呈させ、しかしなおもそこから動く、というような「常に」動き続ける態度なのだ。


絵画を制作する際、それを駆動させるものは何だろうか。制作に「現実的」な力を与えるものは何か。例えばモネにとっての「物自体」的なものとは、「瞬間の印象」ということだったように思う。絵画が絵画である限り、そこに描かれるイメージは、目が捉える瞬間の印象からズレ続け、しかし、であるからこそ、モネを駆動させる効果足り得る。例えば、その理想を定位させる装置としてカメラというものがあるだろう。では、その瞬間的な印象を捉えた写真をモネに見せたとして、彼はそれを理想の絵画として満足することができただろうか、あるいは、その写真をそっくり描く事で満足しただろうか、そうはならないだろう。そこでは瞬間性は固定化され、もはや描くと言う行為とのズレを生み出す「効果」足り得ない。


徹底して「コンセプチュアル」な作品が時につまらないのは、このようなズレに接近してゆく運動を感じさせないからかも知れない、いや、ある時期において、そのような態度は当時の美術に対して「現実的な効果」を持ち得たわけだが、それがコンセプチュアル・アートとして定位してしまった途端に、その外部性が失われてしまう。モネにとっての「瞬間」あるいはセザンヌにとっての「構築」を見つけ出す、しかも固定化し得ないズレそのものとしての「物自体」的なるものを見いだす事、それこそが理想としての絵画を見つける事なはずで、僕にとってのそれは、さしあたり「消去」という言葉で考えうる何かなのかもしれない。