作品写真

kosuke_ikeda2006-07-12

オープニングの様子がこちらにアップされています。
http://spikyart.org/saladdaysinfo.html


オープニングの際に美術史家の富井玲子さんにも言われたのだが、僕の作品の写真を撮るのがなかなか困難で、その印象を正確に伝えるためにどうすればよいのか、未だに最善の策が見つかっていないような気がする。例えば以前log osakaで文化的誤植 場所とはというテクストで触れたけど、スミッソンはギャラリーに「よその何処か(elsewhere)」を想起させるための導入としての写真を展示する。それはいわば、遠く離れた何処かへの通路として機能することとなる。彫刻の場合、それが一枚の二次元的写真に全てを収める事が不可能である事は一般的に了解されているため、そういうものだとして、観る者は捉えるだろう。他方で、僕の作品の場合、ものすごくリテラルに言えば、それは平面作品なわけで、一枚の写真に納まってしかるべきだと見なされるかも知れないけれど、実際にはカメラが鏡を前にした際、それを撮る主体そのものが被写体として映り込んでしまうわけで、これはほとんど、作品が、撮られる事自体に抵抗しているとも言える。


例えばフリードの「芸術と物体性」の中でトニー・スミスがインタヴューで「私はモニュメントをつくっていたのでも、オブジェを作っていたのでもない」というような事を、作品のサイズの関係で答える所が引用されているけど、これはミニマリストが如何に観客の、その身体的な動きを前提にして作品を作っていたのかが分かるよい例だと思う。観者の動きとともに刻々と変化してゆく作品、しかしながらジャッドは作品の統一性、単一性をもった形(unitary form)として観者に現れる事を望むわけで、そこには従来の彫刻的なるものにおける関係性の否定の意識が見て取れる。要するにそれらは観者の動きを通じ変化し、それを一定時間通過する事で、ある単一体(unity)としてあらわれるのだ、と。変化する、それ故に、単一体として知覚される。このようなねじれた論理がミニマリズムにはあった。