搬入、無事終了。形象の問題

今日は、渡辺真也と二人で作品をギャラリーへ運び、設置もほぼ終える事が出来た。一ヶ月の準備期間を経て、二週間で集中して制作して完成となった。今回、随分、絵画におけるイメージの問題に向かい合う事が出来、自分としても大きな一歩になったと思う。イメージ(図像)を極度に恐れる「抽象」な作品に対して辟易している自分自身の意識が明確になり、それを圧倒的に乗り越えるための方法論の模索の日々。いわゆる「抽象」な作品に込められた「形象への恐れ」の意識はよく分かるし、そのような「恐れ」のない、イメージの戯れに充足する「若い」人の意識は問題外だけれど、イメージから臆病に逃げ回るのみの「大人」な作品にも、僕は可能性を見いだせない。


形象に憑かれることに向き合い、消し去りえない憑依と、その背後にある物体性を露にする行為との間に現れる亀裂、そのコンテンションで画面を充実させる。それは画面の中に取り憑いたイメージと対峙し、それを祓い落とそうとする作業の中で蓄積された厚みとなり、と同時に、何もない単なるオブジェクトへの接近そのものでもある。そのような祓いの作業がスタイルとして現れる際、白いカンヴァスそのものとしてのオブジェクトがイメージを飲み込み、しかし、それは再び、形骸化された消去の行為という水準の、もう一つの記号化された「イメージ」に堕す。このような、形象ともう一つの「イメージ」との間にあって、カンヴァスの白が最大限の充溢性としてこれらのイメージに抵抗する瞬間を模索する作業だったように思う。


と同時に、残された課題にも改めて気付かされる、というのも僕は色彩の問題を全く扱っていないからだ。しかし、そうあれもこれも一度に問題として扱うわけにもいかない。歴史的に重要な作品には問題を絞り込む局面が伴っている。キュビズムにおけるピカソやブラックの、あの貧しい色彩、あるいはステラのブラックペインティング、取るべきものを取り、それによってこそ明らかになる「新たな問題」が浮き彫りになる。それらが最良の形で統合されるのはセザンヌでいう所のサント=ヴィクワール山のように、あらゆる経験を積んでからでいいのだ,と思う。ある意味で「貧しく」限定された中から先鋭的な問題を見つけ出し、その可能性を拡張させてゆかなくてはなけない、と思っている。