写真の偶然

ベンヤミンが「写真小史」のなかで「視覚的無意識」というタームを使う際、それは単にこれまで見えなかった瞬間的な動きが顕在化されるという意味だけでなく、そこで現れる瞬間の一断面としての画像が、その統一体としてのイメージから乖離してしまう、この事態を捉えているのだと思う。つまり物体として刻印された瞬間的現れと、そこに映されたイメージの総体としての表象とが、全く相反する印象を見るものに与え、その二つの感覚に引き裂かれるという事態。あるいはベンヤミンは同じテクストの中で、あるカップルを写した写真に関して、その構成された様子は写真家によって意識的に作られたものだと印象を述べる、と同時に観るものはそのような人工的構成の中に<いま・ここ>的な偶然性を探すのだ、と。これはバルト的に言えばステゥディウムとプンクテゥムというタームと重なるのだろうけど、しかし、ここで僕が思うのは、そのように偶然的なものが意識的に作られた構成に対して抵抗するという事態は、非常に限られた条件においてのみ成立するのではないかということ。でなければ、素人の観光写真の背景でも何でも、背景の偶然的要素が、前景的対象の作られたイメージに亀裂を走らせるような要素になる,という事になるのだけど、ちょっとこういう言い方には欺瞞があると思う(別にベンヤミンやバルトの議論がそうなっている、というわけでなく)。でも、それがどのような条件で達成されるのかを理論化するのはさらに難しい、というか単純化するとまたラカンの三界区分で片がついちゃって、そういうのはちょっと無意味だし、ということだ。