「モロッコのマティス」顔の問題、語学の問題

kosuke_ikeda2006-06-11

カタログ「モロッコマティス」を古本屋で安く見つけた。12ドル。こういうのを発見した時、アメリカにいる事を感謝してしまう。1912−13のモロッコ旅行中のペインティングとドローイングを集めた展覧会、写真はその中のドローイング。こういうのをみているとマティスにおける「顔」の問題の複雑さに気付かされる、キャラの問題とも言えるだろうか。絵画におけるキャラというのはしばしば作家の署名として現れ、この作品を、ある作家に帰属させるための記号、他の画家との差異の徴として機能するだろう(それでも盗作される可能性はあるが)。僕はこういうキャラ性の強い画家として、東郷青児とか国吉康雄を思い出す。マティスの場合、顔がそのような「署名」として機能する事は決してない、それはマティスが顔を「描いたり描かなかったり(あるいは最終的に消したり)」するところによく現れているのだろう。画面上のバランスとして、あるいは調和としてそれが必要か否かを常に探りながら、その必然性に基づいて顔の有無は決定される。であるが故に、時に惨いくらいに顔が抜け落ちていたり、人物そのものが幽霊のように掻き消されたりする。


このドローイングも、顔という記号化されたモチーフを追う線と言うよりも、「その他になんとも言いようがないために、とりあえず顔と呼べるかも」というような非常にきわどい場所で、かろうじてモチーフとして認識される。顔と言うのは強力に観者のアテンションを引きつけてしまうものであり、マティスはその力の効果を客観的に把握しつつ、それを書いたり消したり、描き方を変えたりという事を繰り返したのだろう。マティスの顔はピカソのそれともやはり違う。ピカソは時期毎にそのスタイルを変え、その都度それぞれのスタイルにふさわしい顔を見つけているように見えるし、あるスタイルの完成をもってその探求が終えられている感じがするのに対して、マティスの場合、まさに一枚々々の中での決定的な着地点の探求という感じで、目指すべき到達点の想定がないともいえる。そういう意味で、「到達」とは区別される「着地」というのはマティスにふさわしいような気がするのだがどうだろうか。この着地感覚が最もマティスマティス足らしめるものであって、ちょっと簡単に「盗作」出来るものではない。というか簡単に盗作できるものなんて、それくらいの価値しかないんだよ、と。例えば圧倒的な技巧的精度を誇る小磯良平マティス的作品が、しかしマティスからかけ離れているのは、このような「到達点なき着地」の有無によって決定付けられているようにおもう。


(以下、追記)
このような完成地点の決定は、語学の問題とも近いと思う。母国語の修練と外国語の習得との違い。前者において、語学のレヴェルの向上と、それが発する事になる意味や論理的一貫性の向上とはほぼ一致しながら修練が進む、に対して、外国語をゼロから習う場合、発話者の認識能力や論理性は既にある程度発展しており、その内容と外国語での表現能力との大きな差異を埋めてゆくような作業になる。この差異は、語学修錬者にとってひとつの到達点として、外国語の向上を駆動させる。誰でも思うだろう、「オレの頭の中では、こんなに明確な答えがあるのに、それを形に(言語化)できない」って。これはある意味、本当に物理的な感覚というか、頭の中にあるものが口まで届けられない、というくらいのリテラルな感覚で、非常にもどかしい思いをするし、逆にその思いは語学能力の向上に寄与する。


画家の古谷利裕さんが6/10の日記にてマティスセザンヌについて書いているけど、この差異は上のような母国語と外国語の修錬における差異とも重ねられると思う。セザンヌの場合、外国語修錬の場合のような理想としての「到達点」(=信仰)がどこかに既に存在し、それと真っ白なキャンバス(ゼロからの語学)との間を長い時間かけて埋め合わせてゆく、そういう行為の積み重ねとして作品が生み出される。に対してマティスの場合、そのようなあらかじめの「到達点」がなく、常に子供に戻って、あらゆる意味で真っ白な状態で母語を学んでいくように、作品が形成される。そこでは、外国語を学ぶ際に感じるフラストレーション、「頭の中では論理構造ができているのに」という地点がない。毎回、描くたびに認識能力ゼロの状態に戻して、キャンバスに置いた色にのみ対応してゆき、それがある豊かさを形成した時点で、さしあたりの着地点とする。その(語学)表現能力はその一枚のキャンバス上においてのみ形成され、そこでなされた結果が、次の作品制作における前提としての到達点という形で機能するわけではない。


このようなマティスの態度と、同じモテーフを用いたヴァリエーションを多く制作した事とはどのように繋がるのか。