コーネリアス的な存在

こないだコーネリアスについて書いたけど、そういえばある編集者が「コーネリアスが好きって言ってれば、何かイケてる」っていうような存在がいなくなった、みたいなことを言ってたのを思い出した。つまり、誰か一人の名で、自分の文化的感性の高さを代表できるような存在、ということだろう。まあ半分あたってる気がするし、半分あたってない気もする。というのは、例えば10年前であれ、サブカルの細分化は相当に進んでいて、自分が所属している(ような気がする)ジャンルというかフレームと、その他の枠組みとの違いは意識されていて、しかもどれがイケてて、どれがそうでない、とかは容易に言えない状況だった気がする。それでも、例えば僕の周りを思い出すと、weezerはいいけどoasisはダメ、ギターウルフはいいけどブランキー・ジェット・シティはダメ、Yukari Freshはいいけど篠原ともえはちょっと、とか。要するに、そこにある「あえて」の感覚によって辛うじて保持されている微妙な差異が、文化的高感度を気取る少年・少女にとって貴重な判断基準の一つであった。でも現在ではそういう「あえて」の感覚すらさらに複雑化していて、かつてはその手の文化的な人たちから蔑まれるべき存在だったラッパーとかも、「あえてラッパー」とかそういう形で存在しうるのかもしれないし、さらには「あえてラッパー、と見せかけつつあえてオタク」とか「あえてラッパー、と見せかけつつあえてオタク、と見せかけつつあえてヤンキー」とか、いやそんなのがあるかは分かりませんが、とにかく二重三重の自己意識の相対化が避けられない感はある。そういうわけで、「やっぱコーネリ」と自信をもって言える時代は過ぎ、そういうわけでコーネリ的存在もちょっと出てきにくくなっている状況はあるのかも知れない。まあ若者のことは知らんけど。