”Fast Futures: Asian Video Art”

kosuke_ikeda2006-05-27

■Japan Societyにて三人の若手ヴィデオアーティストによる”Fast Futures: Asian Video Art”、その後モマにてコレクション展示をみてボストンへ。バスの中で書いてて時間があるから、少し詳しく書けるかも知れない。Japan Societyの方はあからさまに、お金も時間もありませんでした、という感じで、はっきりいって虚しくなった。展示にも作家の選択にも企画意図が全く伝わって来ず、作家側というよりもギャラリー側に責任があるのだろう。若い作家がこのような場で展示できるのはすばらしいとしても、企画としてちょっとひどすぎる。アレクサンドラ・モンローが辞めて、ナントカという人が暫定ディレクターとして挨拶文を書いてたけれど、まあ次回は期待したい、って次回は「Contemporary Clay: Japanese Ceramics for the New Century」らしいから、まあ次々回に期待ってことで、はは。


一人目の展示はBea Camachoというフィリピンのアーティスト。毛糸のような赤い糸で繭状に、自分の体を包むように縫い上げてゆく。そのパフォーマンスの様子を捉えた11時間の映像が流れるテレビモニターが部屋の隅にポツンと置いてあって、それでおわり。今時、学生企画の展覧会でももう少し気の利いたことできるって。たしか1984年生まれって書いてあって、ものすごく若いからしょうがないかも知れないけど、画面構成やそれが行われるシチュエーションの選択など、様々な点で作品として全く未完成で、それ以外の仕事を知る情報提供も何もない。次にサワ・ヒラキという日本人の映像プロジェクション、この人の作品はチェルシーのどこかのギャラリーでも展示されていた。白黒で主に室内の日常的な光景を切りとりながら、その中を影のラクダやゾウがゆっくりと横切ってゆく。まあいかにも「女性的」な作品で、その情緒感からして好みではないけど、ビデオのざらついた画面の質感とコントラストの低いモノクロ映像とは、相性がいいと思う。


で、最後が田中功起氏。この人の映像は一年前の芸大修了制作展で観たことがある。サイコロがグラスの中で回転し続ける「123456」、2分くらい導火線の火がバリバリと進み続ける「light my fire」、様々な食材を基にした調理場面が延々と続く作品(タイトルは忘れた)など、パッと見で面白い。ちょっと思うのだけど、こういう現代美術の映像の所有ってどうしているのだろうか。まあよくあるのはエディションナンバーを決めて、その数の中で値段を決めて売る、と。しかし、それをもし買ったとして、何かの機会に「さあ、あれ観ちゃおうかな」って気分になるのだろうか。少なくとも僕に関しては、田中氏の今回の映像を観て、もう一度観ようという気にはならなかった。良くも悪くも制作意図が明快で、その潔さは気持ちいいが、作品と呼べるほどの広がり、あるいは謎が全くない(どうやって作ってるのかな、という謎はあるかも知れない)。


簡単にいえば、導火線であれ、サイコロであれ、料理であれ、何らかの結果を伴っているかのように見える行為から、そのプロセスのみを取り出すことにより、その結果を宙吊りにしつつ、プロセスの意味性が脱臼してナントカってヤツだ。まあ、こういう類いのことを臆面もなく書けるのが批評家とかキュレーターとかいうウサンクサイ人たちなのかもしれないが、僕にはちょっと。とか言いつつ僕は臆面もなく次のような言葉を選びたくなるのだが、こういう作品を「愛する」ことは可能なのだろうか、と軽く悩んでしまった。愛するというのが(恥ずかしいだけでなく、)分かりにくいとすれば、ある長い時間を作品と共に過ごすことが可能なのだろうか、と。なんだかこじんまりとまとまり過ぎていて、二度観ることすらも躊躇われる。もしかしたらここで問われているのは、純粋に映像としての質の水準ではないか。色や構図、運動性や物体の質感などが、より決定性を持って現れることによって、上に書いたような「読み」に回収されない何か、未だ見えざる何かが与えられるかも知れないし、それがなければ所詮、作品とは呼べないと僕は思う。そういうことを追求する上でデジタルヴィデオという媒体の限界にも直面することになるのかもしれないけれど。いずれにせよ、もっと別のことができる作家なんじゃないかな,というポテンシャルは感じた。


■そんなこんなでJapan Societyはさらっと軽めでスカされても、MOMAのコレクションの圧巻ぶりに満足できるので問題なしだ。とりあげたいのはいくらでもあるが、今回は、確か2年前、クィーンズの頃のモマでも観たセザンヌの一枚が、改めて素晴らしかった。95年半ば、ビベミュの石切り場を描くことで風景画においても鮮やかさが増している時期だけど、静物の方も輝くような色使い。セザンヌにしては珍しくテーブルの上が平坦っていうか、一点から見据えたような構造がしっかりしている。中央が安定した水平面を成すからこそ余計に、左上、余白をたっぷり残しつつ描かれた布と、前景の布の白、左側のビン、これら三点の「抜け」が奇妙な存在感をもって立ち現れ、中央の果物の彩度に拮抗する。これから何日かはMOMAで撮った写真を貼って行こうとおもう。