■今日は、メトロポリタンにて「迫真性」についてぼんやり考えていた。具体的にはレンブラントの『ホメロスの胸像を眺めるアリストテレス』とベラスケス『フアン・デ・パレーハ』を見つつ。どちらもメトロポリタンヨーロッパ絵画セクションの代表作と言えると思う。迫真って真に迫るわけで、リアルなものに近づく感じを指すのだし、実際、これらの作品からそれを感じとる事が出来る。でも、考えてみたら僕という鑑賞者はその作品が迫ってゆく「真」の部分たるアリストテレスやフアン・デ・パレーハを見知っているわけでもなければ写真で見た事があるわけでもない。あ、この疑問のちょっとした結論が今、頭に浮かんでしまったのだが、結論めいたものですぐ納得してしまうのは僕の悪い癖なので、もう少し迂回して思考を深めるプロセスを踏まないと。


レンブラントってなかなか難しい画家で、特に晩年の肖像画なんか見てると偉大な画家である事は疑い得なくて、それこそ迫真性を感じさせるわけだけど、それ以上に何か言うのがむずかしく、だから「人生の労苦がにじみ出てる」とか「威厳が感じられる」とかそういうことになる。というか、そういう部分が圧倒的にうまく出来過ぎていて、何か言おうとしてもウソっぽくなってしまうというか。


で、その迫真性ということに戻ると、その「真」の部分を知らない者でも「真に迫る」運動を感じ取る事が出来るのだった。他方でリアリスト、クールベは「見た事のないものは描かない」と言った。クールベの作品にレンブラントと同じような「迫真性」があるかと言えば微妙で、やっぱりクールベは「人間、捨ててます」って感じで、人生がにじみ出るような人物は書いていないように思える。それはダヴィッドなどが描く新古典主義的「偉大なる人物像」に対する意識の現れの一つかもしれないけれども。


レンブラントを相対化する画家としてはフェルメールもあげておく必要があるだろう。フェルメールの画面は、たとえばヤン・ファン・アイクみたいにエッジをたてて細かく描きまくる,というものではなくて、絵具の柔らかな質感を残しながら、画面としては平坦に仕上げている。レンブラントに特徴的なナイフでグイと盛り上げたような質感の見せ方もしない、にもかかわらず、その小さな画面を少し離れて見てみると異様なリアリズムを感じる事になる。 それは、先に書いたような均質なマチエールで全体を描きながらも、細部の微妙な質感の違いや、光のあたり方などを表現する独自の技術を身につけている事によると思う。


こう考えてみるとレンブラントってベラスケスの一部の作品のような構造的な魅力や、クールベのようなヤケクソ感や、フェルメールのような独自の技法のようなものが立ってきていなくて、とにかく「迫真」一本槍で行ってて、それが偉大な達成を成しているのは分かるけど、それ以上に何か言うのは難しいかもしれないなあ、と思わされる。