■二つのテクストが小さな、しかし公の場に放たれました。


log osaka web magazineに「文化的誤植を注視せよ!−−空白とは」が、美術批評誌LRリターンズ06号に連載『ここで、ものを、みるということ。(2) トーマス・ヒルシュホーン〈Utopia, Utopia=One World, One War, One Army, One Dress. 〉展』が掲載されています。


特に後者は年末にほぼ書き終え、しばらく忘れていたのでなんだか懐かしい感じすらしてしまう。そのうちウェブ上にもアップできるかと思います。


■今回log osakaでは『新潮』二月号を扱ってみた。別に文芸誌全般に詳しいわけではないけれど、はるばる海を越えて届けられたそれは驚くほどによく出来ていて、ぜひ何か書いてみたいと思わされた。実は、「空白とは」で指摘している部分のみならず、様々なエッセイや小説、批評などが雑誌の中で反響し合い、複雑な空間を作り上げていた。むろんそのような複雑さを構成する要素の中で圧巻なのは、小島信夫の「残光」なわけだが、これに手を出すとどうにもまとまりそうにないので手を付けられなかったのだ。いや、雑誌作りとは本当に難しいものだろうと思う、編集の舞台裏のテンションはあからさまに紙面あるいはウェブ上に反映されてしまうからだ。書き手が他の書き手を意識していない雑誌というのは、はっきりいってダメ。とはいえ、小さな共同体の中で互いに見知った同士で仲良くやってても緊張感は失われる。『新潮』にしたって二、三年前は手に取るにも耐えない醜い雑誌だったわけだしなあ、他のとこにも可能性はあるはずだ。


■去年の六月(もう一年近く前!)に多摩美で行った発表のレジュメを見直して、最近考えている事とうまく繋げて考える事ができそうないくつかのポイントが見つかった。僕にはどうも、一つの事を常に考え続け発展させる能力が欠けているので、様々な形で考えた様々な問題意識を繋げていくより他ないのかと思う。それらの共通性を意識するというのは、自分の思考の限定性を知る事でもあり、しかし同時に、それをよりしっかりした形でまとめなくては先に行けないのかも知れない、とも感じさせられるのだった。