京都へ。ヒロシマ・モナムール

京都へ。移動中、2、3日前にDVDで観た「二十四時間の情事ヒロシマ・モナムール)」(アラン・レネ)が気になってきた(つーかこの邦題、どうなの?)。ざっくりと考えたこと。


政治的映画というよりも徹底した恋愛映画として撮られている。しかしそれが恋愛映画と異なる印象を与えるのは、映画の中で男と女の「出会い」のシーンが決定的に欠けているからだろう。冒頭からのエマニュエル・リヴァ岡田英次が裸で抱き合う中での展開されるダイアローグ。リヴァは「あなたは私を夢中にさせる」「恋に落ちた」などと言うが、彼女が恋に落ちた、その根拠、ないし彼らの出会いが観客に示されることはない。リヴァにとって岡田は回想シーン内に現れる初恋の相手であるドイツ人に似ている、つまり初恋の相手のイメージという形で見られる存在でしかなく、観客にとっての岡田の印象も同様に、ヒロインがその過去を語りその苦悩を語るのに対して、岡田に関しては「建築家」だということ以外は、なぜフランス語が話せるのかすら明らかでなく、全く人物としての厚みが描かれない。


記憶の忘却は何度もレヴァによって語られるが、それもやはり一回的な出会い/出来事を欠いているが故にだろう。彼女にとって、目の前で殺された初恋のドイツ人の姿は忘れることなく再帰し続けるが、そのイメージを通じて見られる岡田の姿を忘れ去るであろうことには確信を持っている。同様に、初恋のイメージとともにある故郷ヌベールの地を忘れることはないが、その地のイメージを(あるいは博物館の資料やニュースといったイメージを)通じて見られるヒロシマのことは忘れて行くだろうと確信している。岡田との「出会い」が決定的に欠けている、というのはつまり、彼女が「ヒロシマを経験する」ということの不可能性と全く同義なのだろう。それらは厚みのないイメージとして語りうるのに過ぎない。まさに岡田と言う男が、リヴァにとってはイメージを通じてのみ存在し得ないように、「ヒロシマという出来事」もまたフィクションとして構成されるに過ぎない。出会いの一回性の欠如が、「ヒロシマという出来事」の決定的欠如(=表象不可能性)へと重ねられる。


ラストシーンでリヴァが岡田に対して「ヒロシマ」と、岡田がリヴァに対して「ヌベール」と呼びかける。このシーンが、何か底が抜けたような違和感を感じさせるのは、本来なら映画冒頭にあるべき「名の交換=一回的な出会い」が、死後の世界のゾンビとして、形を変えて映画の終わりに現れ出てしまう、その奇妙さに起因しているのだろう。このシーンによって、全体を貫くヒロシマの表象不可能性、あるいは忘却の不可避性といった枠組みからの生産的なズレが生み出されているような気がするが、もうすこし考えてみたい。


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京都・行きたいとこリスト(作品はコピーを含む)


大徳寺 聚光院(狩野永徳+松栄)大仙院(狩野元信)
二条城(狩野探幽
妙心寺 天球院(狩野山雪
禅林寺長谷川等伯・狩野元信)
智積院長谷川等伯・久蔵)
養源院(俵屋宗達狩野山楽


こんなに廻れるかどうかは分らないが、ともかく永徳展をきっかけに、狩野派、特に安土・桃山関係を中心に押さえていきたい。