明石家さんま、画家としての

ここでもちょっと書いたけど、「踊る!さんま御殿!!」「恋のから騒ぎ」など、多数の出演者を前にした明石家さんまは、しかし、ほとんどキャンヴァスに向かいあう画家にしか見えない。アトリエの壁面に巨大なキャンバスが立てかけてあるかのような角度で共演者陣は配され、さんまはそこに広がる平面を自身の真正面に据えて、なにやら棒状のものを常に振り動かしている。画家としてのさんまは、その平面上に与えられた出演者が持ち得る笑いの可能性(より正確には、蓋然性)の総体をあますところなく把握し、精緻かつダイナミックに筆を置き、そこからの反応を誰よりも素早く捉え、すぐさままた別の場所へと投げ返す。たとえそれが存外に鈍いものであったとしても、その鈍い反響をも丁寧に回収し、また笑いのグルーヴ内に違和感なく組み入れてゆく。平面から距離を置いて全体を視野に入れつつ、瞬時にその中へ鋭い切り込みを入れ、また二、三歩下がる。さんまが前進するとそれだけで画面にテンションが、最大限の運動感が産出され、それが限界点に達すると、一息つくかのように後退し、次のテーマへの体勢を整える。


画面は中心性を持たず、オールオーヴァーに広がった抽象画のようだ。しかし、その大画面から現れる運動は、画家のスタイル(キャラクター)に基づいて産出されるのでは決してなく、あくまでもその平面上にすでに存在している与件に対し敏感に反応して行く形で、生成されてゆく。その意味でさんまは極めてポストモダンな芸人なのだろう。その人が画き始める白いキャンヴァス上は、すでにあらゆるイメージ、紋切り型によって埋め尽くされている(ドゥルーズ)。さんまはそれら一つ一つの紋切り型を時に激しく変形させ、時にしなやかに結びつけることによって、平面を平面として存在させつつ(つまり安易にインスタレーション化させることなく)、そこに活気ある律動を生成してゆく。


オールオーヴァーな抽象画と書いたが、それは何のイメージも描いていないような茫洋とした色面を想定している訳ではない、さらにいえば、イメージから逃れるべく臆病に右往左往する脆弱な線の抽象でもない(それは結局のところ”ホームレス・リプレゼンテーション"なるもののイラストレーションに過ぎない)。むしろ積極的に個々の出演者が持つ属性やキャラクターに基づきつつ、それら複数の紋切り型による雑多な諸要素を、見た事もないようなスピードと精度で結びつけ、その過剰な運動の持続状態の渦中で、個々のキャラクターたちは蕩尽されてゆく。それら、与えられた紋切り型を灰にしながら生み出される熱量が画面を埋め尽くす、そのようなオールオーヴァーネスを獲得しているように思われる。


そのような運動の最中、唐突に挟まれるCMは、ディプティック(二連画)やトリプティック(三連画)などにおけるパネルの効果として捉えられるべきだろう。それは二つの運動を切断し、同時に接合する。見るものの視線の分断が為されると同時に、水平方向への跳躍が要請される。ディプティックの場合、パネルによって物理的に断絶させられた視線が、その抵抗感を反動にしつつ、水平方向へとジャンプし、さらに再びもう一つのパネルへ、というように絶えざる反復運動を生み出す事になるのだが、さんまの番組の場合はCM前からCM明けへと観者の感覚が飛躍し、その後、またCM前へと後戻りすることはできない。その意味で絵画以上にラディカルな飛躍を強いられると言うべきか。番組が終われば、そこで語られてきた内容を思い出すことすらできない、かつて運動がそこにあった事による余熱だけが残る。