展覧会を批評すること

kosuke_ikeda2006-12-14

例えば、ビル・ヴィオラの展覧会を否定するのは意外と簡単だと思う。あの中でパッと印象に残る作品をつかまえて、その凡庸なスペクタクル量産法を蔑めば良いし、時代錯誤的にバブリーな六本木ヒルズという場と、その作品とを重ねることも出来るだろう。ただ、あるアーティストの本質が必ずしも「目立つ」作品に現れているとは限らないし、もしもその一番面白い部分が別の場所にあるのだとしたら(ここが重要なことなのだろうけど)、それを探り出すのも批評の役割だろう。原則としてアーティストは、展示の場に提出したすべての作品に対して批評を受ける責任があるだろうけれど、だからといって批評は瞬間的に目につく作品だけを捉えて展示全体を語ればよいというわけでもない。むしろ作家がその展示に関して持つそれと同等の責任を、個々の作品に関して持たなくてはいけないのだと思う、原則としては。


展覧会の批評というジャンルめいたものがある。一口に展覧会と言っても、いろいろな形があるのだが大きくいえば


1:一人の作家がすべての作品を出品する個展という形式
2:ある展示コンセプトの基に様々な作家の作品を一同に提示する形式


とに分けられるかもしれない。もちろんそれぞれに細分化可能だし、二つの要素が混交したようなものも考えられる(例えば二人展)。せっかく分けておいて何だけど、結局のところ両者ともにおける批評で重要なことは二つのレベルに分けられるだろうか。


A:大枠としての展示コンセプトという水準
B:個々の作品という水準


相対的にいえば1の形式の個展タイプではBのレヴェルが重要視されるし、2の形式の企画展タイプ(この言い方は不完全だけど)ではAのレヴェルが重要視される傾向にあるかもしれない。とはいえ、例えば個展タイプでは観者は何かと派手な作品に目を奪われてがちで、その印象と全体のフレームとを同一視してしまい、その他の作品を軽く流してしまったりする。のだけれど、よい(あるいはイヤな)展示というものは、実は細部に、そのようなフレームを解体させてしまうような要素が散りばめてあったりする。あるいは企画展タイプにしても本当に面白いのは、一つのコンセプトの基に展示されている個々の作品が、展示コンセプトの枠組みを超えた所で観者を捉えてしまう、そんな瞬間だったりする。だからといって始めから枠組みも展示意図もグチャグチャなままで提示すれば良いのかといえばそうではなく、むしろあるコンセプトやフレームが責任ある形で提示されてこそ、それを飛び越えるような細部のノイズが意味を持つ。