奥村雄樹さんの映像作品

映像作品を主につくっているアーティスト、奥村雄樹さんの最新作品をウェブで見た。"Supersonic""Countdown in NYC"


実はこれらの作品のアイデアは以前,本人から聞いた事があり、カウントダウンの方は部分的に見せてもらっていた。どちらも巧く出来ているし、普通に面白いと思う。と同時に、アイデアを聞いた時点で僕が想起した完成像とほぼ同じで、物足りなさも感じる。奥村さんの作品の中には、常に一つの軸があるように思う。これは比喩的に言うのではなくて文字通りの意味で。どちらの作品においても観る者は、そこに一本の繋がりを認める事となる。前者であればくしゃみという要素、後者のそれは数字。異なる場面が編集という行為によって接続される、接続点はこれらの要素によってガッチリと結びつけられている。それゆえに観る者は容易にその連続性を感知することができるし、作品全体はこの連結感によって構造化、一本化される。そして問題は、その連結感を成す無数の要素としてのくしゃみや数字という要素が、この連結性のなかに従属しているようにみえること、それ以上の何ものでもないこと、このことが作品をすごく窮屈なものにしていると思う。


もう少し言えば、映像作品である以上、そこには自ずから、ある一定方向の時間性が生まれるわけだが、先にあげたくしゃみや数字という要素は、この時間性に「リズムを加える」という程度の要素でしかなく、規定的に流れる時間を揺さぶり、あるいは切断するような抵抗物として現れる事がない。その意味でも、これらの要素が映像の流れに従属する感を避けられないと思う。それらによって加えられるリズムがそれなりに「気持ちのいい」ものである事は分かるが、その程度でしかない。


であるとすれば、「時間の流れ」と「個々の要素」とが安定的に一致し過ぎている事が問題の一つとして挙げられるのではないか。例えば、”Supersonic”であれば、圧倒的なまでの早さでくしゃみが繰り返されて、時に個々の画面を接続する要素がその接続された背景を追い越して見えてくるとか(他にも方法はあると思うけど)、つまり接続する要素そのものが映像的時間性に抵抗するような地点をつくることができれば、作品はぐっと強さを増すと思う。言い換えれば数々の結節点が時間的な連続性を生み出しつつ、その流れを置き去りにして立ち上がる、そこにおいて「くしゃみ」や「数字」という要素たちが、一本の繋がりに対する抵抗物となりうるという気がするのだけれど。